信(手纸)----芥川龙之介--日语原版

信(手纸)----芥川龙之介--日语原版
信(手纸)----芥川龙之介--日语原版

手紙

芥川龍之介

僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは

確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱に善よいとか云うことです。

そのせいか狂人も二人ふたりばかりいます。一人ひとりは二十七八の女です。この女は何も口を利きかずに手風琴てふうきんばかり弾ひいています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二三度見かけたと

ころではどこかちょっと混血児あいのこじみた、輪廓りんかくの正しい顔をしています。

もう一人の狂人は赤あかと額ひたいの禿はげ上った四十前後の男です。この男は確

か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂ふろの中でも一しょになります。K君は(これはここに滞在しているある大

学の学生です。)この男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松

まつさんだね」と言ったものです。するとこの男は湯に浸ひたったまま、子供のよう

に赤い顔をしました。……

K君は僕よりも十とおも若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子とかなり

懇意にしている人です。M子さんは昔風に言えば、若衆顔わかしゅがおをしていると

でも言うのでしょう。僕はM子さんの女学校時代にお下げに白い後うしろ

鉢巻はちまきをした上、薙刀なぎなたを習ったと云うことを聞き、定めしそれは

牛若丸うしわかまるか何かに似ていたことだろうと思いました。もっともこのM子さん親子にはS君もやはり交際しています。S君はK君の友だちです。ただK君

と違うのは、――僕はいつも小説などを読むと、二人ふたりの男性を差別するため

に一人ひとりを肥ふとった男にすれば、一人を瘠やせた男にするのをちょっと滑稽に思

っています。それからまた一人を豪放ごうほうな男にすれば、一人を繊弱せんじゃくな

男にするのにもやはり微笑ほほえまずにはいられません。現にK君やS君は二人と

も肥ってはいないのです。のみならず二人とも傷きずつき易い神経を持って生ま

れているのです。が、K君はS君のように容易に弱みを見せません。実際また

弱みを見せない修業しゅうぎょうを積もうともしているらしいのです。

K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合っているのはこれだけです。もっともつき合いと言ったにしろ、ただ一しょに散歩したり話したりするほかはありません。何しろここには温泉宿のほかに(それもたった二軒だけです。)カッフェ一つないのです。僕はこう云う寂しさを少しも不足には思っていません。しかしK君やS君は時々「我等の都会に対する郷愁」と云うものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子

は貴族主義者です。従ってこう云う山の中に満足している訣わけはありません。

しかしその不満の中に満足を感じているのです。少くともかれこれ一月ひとつきだ

けの満足を感じているのです。

僕の部屋は二階の隅にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かい、午前だけはちゃんと勉強します。午後はトタン屋根に日が当るものですから、その烈しい火照ほてりだけでもとうてい本などは読めません。では何をするかと言えば、K

君やS君に来て貰もらってトランプや将棊しょうぎに閑ひまをつぶしたり、組み立て

細工ざいくの木枕きまくらをして(これはここの名産です。)昼寝をしたりするだけです。五六日前の午後のことです。僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋紙の表紙

をかけた「大久保武蔵鐙おおくぼむさしあぶみ」を読んでいました。するとそこへ襖ふすまを

あけていきなり顔を出したのは下の部屋にいるM子さんです。僕はちょっと狼狽ろうばいし、莫迦莫迦ばかばかしいほどちゃんと坐り直しました。

「あら、皆さんはいらっしゃいませんの?」

「ええ。きょうは誰も、……まあ、どうかおはいりなさい。」

M子さんは襖ふすまをあけたまま、僕の部屋の縁先えんさきに佇たたずみました。

「この部屋はお暑うございますわね。」

逆光線になったM子さんの姿は耳だけ真紅しんくに透すいて見えます。僕は何か義

務に近いものを感じ、M子さんの隣に立つことにしました。

「あなたのお部屋は涼しいでしょう。」

「ええ、……でも手風琴てふうきんの音ばかりして。」

「ああ、あの気違いの部屋の向うでしたね。」

僕等はこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日にしびを受け

たトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜はざくらの枝

から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいまし

た。それは実に呆あっ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。――

「フライ鍋の中へでも落ちたようですね。」

「あたしは毛虫は大嫌だいきらい。」

「僕は手でもつまめますがね。」

「Sさんもそんなことを言っていらっしゃいました。」

M子さんは真面目まじめに僕の顔を見ました。

「S君もね。」

僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞えたのでしょう。(僕は実はM子さんに、――と云うよりもM子さんと云う少女の心理に興味を持ってい

たのですが。)M子さんは幾分か拗すねたようにこう言って手すりを離れました。

「じゃまた後のちほど。」

M子さんの帰って行った後のち、僕はまた木枕きまくらをしながら、

「大久保武蔵鐙おおくぼむさしあぶみ」を読みつづけました。が、活字を追う間あいだに時々あの毛虫のことを思い出しました。……

僕の散歩に出かけるのはいつも大抵たいていは夕飯前ゆうめしまえです。こう云う時に

はM子さん親子をはじめ、K君やS君も一しょに出るのです。そのまた散歩する場所もこの村の前後二三町の松林よりほかにはありません。これは毛虫の落ちるのを見た時よりもあるいは前の出来事でしょう。僕等はやはりはしゃぎながら、松林の中を歩いていました。僕等は?――もっともM子さんのお母さん

だけは例外です。この奥さんは年よりは少くとも十とおぐらいはふけて見えるの

でしょう。僕はM子さんの一家のことは何も知らないものの一人です。しかし

いつか読んだ新聞記事によれば、この奥さんはM子さんやM子さんの兄にいさん

を産うんだ人ではないはずです。M子さんの兄さんはどこかの入学試験に落第したためにお父さんのピストルで自殺しました。僕の記憶を信ずるとすれば、新

聞は皆兄さんの自殺したのもこの後妻ごさいに来た奥さんに責任のあるように書

いていました。この奥さんの年をとっているのもあるいはそんなためではないでしょうか? 僕はまだ五十を越していないのに髪の白い奥さんを見る度にどうもそんなことを考えやすいのです。しかし僕等四人だけはとにかくしゃべりつづけにしゃべっていました。するとM子さんは何を見たのか、「あら、いや」と言ってK君の腕を抑えました。

「何です? 僕は蛇へびでも出たのかと思った。」

それは実際何でもない。ただ乾いた山砂の上に細こまかい蟻ありが何匹も

半死半生はんしはんしょうの赤蜂あかはちを引きずって行こうとしていたのです。赤蜂は仰あおむけになったなり、時々裂さけかかった翅はねを鳴らし、蟻の群を逐おい払って

います。が、蟻の群は蹴散けちらされたと思うと、すぐにまた赤蜂の翅や脚にすが

りついてしまうのです。僕等はそこに立ちどまり、しばらくこの赤蜂のあがい

ているのを眺めていました。現にM子さんも始めに似合にあわず、妙に真剣な顔を

したまま、やはりK君の側に立っていたのです。

「時々剣けんを出しますわね。」

「蜂の剣は鉤かぎのように曲っているものですね。」

僕は誰も黙っているものですから、M子さんとこんな話をしていました。

「さあ、行いきましょう。あたしはこんなものを見るのは大嫌い。」

M子さんのお母さんは誰よりも先きに歩き出しました。僕等も歩き出したのは勿論もちろんです。松林は路をあましたまま、ひっそりと高い草を伸ばしていま

した。僕等の話し声はこの松林の中に存外ぞんがい高い反響を起しました。殊にK

君の笑い声は――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話していま

した。この田舎いなかにいる妹さんは女学校を卒業したばかりらしいのです。が、

何でも夫になる人は煙草ものまなければ酒ものまない、品行方正の紳士でなければならないと言っていると云うことです。

「僕等は皆落第ですね?」

S君は僕にこう言いました。が、僕の目にはいじらしいくらい、妙にてれ切った顔をしていました。

「煙草ものまなければ酒ものまないなんて、……つまり兄貴あにきへ当てつけてい

るんだね。」

K君も咄嗟とっさにつけ加えました。僕は善いい加減かげんな返事をしながら、だんだ

んこの散歩を苦にし出しました。従って突然M子さんの「もう帰りましょう」と言った時にはほっとひと息ついたものです。M子さんは晴れ晴れした顔をし

たまま、僕等の何なんとも言わないうちにくるりと足を返しました。が、温泉宿

へ帰る途中はM子さんのお母さんとばかり話していました。僕等は勿論前と同じ松林の中を歩いて行ったのです。けれどもあの赤蜂はもうどこかへ行っていました。

それから半月はんつきばかりたった後のちです。僕はどんより曇っているせいか、

何をする気もなかったものですから、池のある庭へおりて行ゆきました。すると

M子さんのお母さんが一人ひとり船底椅子ふなそこいすに腰をおろし、東京の新聞を読んで

いました。M子さんはきょうはK君やS君と温泉宿の後ろにあるY山へ登りに

行ったはずです。この奥さんは僕を見ると、老眼鏡ろうがんきょうをはずして

挨拶あいさつしました。

「こちらの椅子いすをさし上げましょうか?」

「いえ、これで結構です。」

僕はちょうどそこにあった、古い籐椅子とういすにかけることにしました。

「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」

「いいえ、……何かあったのですか?」

「あの気の違った男の方がいきなり廊下ろうかへ駈かけ出したりなすったものです

から。」

「そんなことがあったんですか?」

「ええ、どこかの銀行の取りつけ騒ぎを新聞でお読みなすったのが始まりなんですって。」

僕はあの松葉の入れ墨ずみをした気違いの一生を想像しました。それか

ら、――笑われても仕かたはありません、僕の弟の持っている株券かぶけんのこと

などを思い出しました。

「Sさんなどはこぼしていらっしゃいましたよ。……」

M子さんのお母さんはいつか僕に婉曲えんきょくにS君のことを尋ね出しまし

た。が、僕はどう云う返事にも「でしょう」だの「と思います」だのとつけ加

えました。(僕はいつも一人ひとりの人をその人としてだけしか考えられません。

家族とか財産とか社会的地位とか云うことには自然と冷淡になっているのです。おまけに一番悪いことはその人としてだけ考える時でもいつか僕自身に似

ている点だけその人の中から引き出した上、勝手に好悪こうおを定さだめているので

す。)のみならずこの奥さんの気もちに、――S君の身もとを調べる気もちに

ある可笑おかしさを感じました。

「Sさんは神経質でいらっしゃるでしょう?」

「ええ、まあ神経質と云うのでしょう。」

「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね。」

「それは何しろ坊ちゃんですから、……しかしもう一通ひととおりのことは心得て

いると思いますが。」

僕はこう云う話の中にふと池の水際みずぎわに沢蟹さわがにの這はっているのを見つ

けました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、――甲羅こうらの半ば砕けかかっ

たもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロ

ポトキンの相互扶助論そうごふじょろんの中にあった蟹の話を思い出しました。クロポト

キンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我けがをした仲間を扶たすけて行ってや

ると云うことです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、

それはいつも怪我けがをした仲間を食うためにやっていると云うことです。僕はだ

んだん石菖せきしょうのかげに二匹の沢蟹の隠れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話していました。が、いつか僕等の話に全然興味を失っていました。 「みんなの帰って来るのは夕がたでしょう?」

僕はこう言って立ち上りました。同時にまたM子さんのお母さんの顔にある表情を感じました。それはちょっとした驚きと一しょに何か本能的な憎しみを閃ひらめかせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。

「ええ、M子もそんなことを申しておりました。」

僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁先えんさきの手すりにつかまり、松林の上

に盛り上ったY山の頂いただきを眺めました。山の頂は岩むらの上に薄い日の光

をなすっています。僕はこう云う景色を見ながら、ふと僕等人間を憐みたい気もちを感じました。……

M子さん親子はS君と一しょに二三日前まえに東京へ帰りました。K君は何で

もこの温泉宿へ妹さんの来るのを待ち合せた上、(それは多分僕の帰るのより

も一週間ばかり遅れるでしょう。)帰り仕度したくをするとか云うことです。僕は

K君と二人だけになった時に幾分か寛くつろぎを感じました。もっともK君を

劬いたわりたい気もちの反かえってK君にこたえることを惧おそれているのに違い

ありません。が、とにかくK君と一しょに比較的気楽きらくに暮らしています。現

にゆうべも風呂ふろにはいりながら、一時間もセザアル?フランクを論じていまし

た。

僕は今僕の部屋にこの手紙を書いています。ここはもう初秋しょしゅうにはいっ

ています。僕はけさ目を醒さました時、僕の部屋の障子しょうじの上に小さいY山や

松林の逆さかさまに映っているのを見つけました。それは勿論戸の節穴ふしあなからさして来る光のためだったのです。しかし僕は腹ばいになり、一本の巻煙草をふかしながら、この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。………

ではさようなら。東京ももう朝晩は大分だいぶ凌しのぎよくなっているでしょう。

どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい。

(昭和二年六月七日)

芥川龙之介的文学之路

芥川龙之介的文学之路及其《罗生门》 梁济邦( 西安外国语学院研究生部陕西西安710061) 【摘要】论文从文学史的角度阐述了日本著名作家芥川龙之介的文学地位和主要成就, 并通过对其代表作《罗生门》的写作特色、主题思想、现实意义进行剖析, 帮助读者了解芥川的文学生涯及其《罗生门》。 【关键词】芥川龙之介; 新现实派作家; 短篇小说之王; 历史小说; 《罗生门》; 利己主义 日本近代作家芥川龙之介1892( 明治二十五) 年生于东京, 卒于1927( 昭和二) 年。虽经三个年号, 但生命却短短36 岁。其生前写下了许多脍炙人口的佳作。或被收入国语教材中, 或被编入《现代文》中, 或被搬上银幕。其作品在国内自不必说, 在国际上也日益被人们所注意, 影响愈加深远。日本家喻户晓的文学奖芥川奖便是以他的名字命名的, 获得芥川奖宛如是走向文学殿堂的通行证, 也是每个文学新人梦寐以求的。 芥川是新现实派( 理知派) 的中心成员, 自小聪颖出众, 是日本近代最优秀的短篇小说作家, 其主要作品有《罗生门》、《鼻子》、《芋粥》、《地狱变》、《舞会》、《河童》等, 均为短篇小说。尤其应指出的是在他发表了《罗生门》后( 当时为东京大学学生) 紧接着在第四次《新思潮》上发表了取材于历史小说《今昔物语集》、《宇治拾遗物语》的《鼻子》, 受到日本文学大师夏目漱石的极高评价, 亲笔致信激励他写出更多佳作。受此鼓励芥川笔耕不息, 佳作不断, 活跃在日本文坛上, 并以自己独特的写作风格送来缕缕新风。芥川1892 年3 月1 日作为新原敏三的长子出生。生时为龙年龙月龙日故名龙之介。九个月后生母因精神失常, 不得已将其送到娘家芥川家做养子, 所以后来便称为芥川龙之介。在他11 岁时, 生母过早地离开人世, 给其身心留下了抹不去的阴影。 就学阶段学业出众, 免试进入一高。2 2 岁进入东京大学英文科, 在校期间参加文学活动, 发表文学作品, 这时期称为新思潮时期, 其间最主要的作品有《罗生门》、《鼻子》、《芋粥》等, 并成为夏目漱石的门下弟子之一。 毕业之后, 进入其艺术至上主义时期( 大正元年—大正十一年) , 主张作品自身的艺术性高于其他,追求作品的艺术美, 主要代表作有《地狱变》、《枯野抄》等。 其后开始自传性作品的写作时期( 大正十二年—大正十四年) , 这期间只有两年, 主要作品有《大导寺信辅的半生》等。从这时期起, 身体状况渐渐恶化。 后期虽疾病困扰, 但芥川仍然坚持写作, 因胃肠疾病、神经衰弱、失眠、痔疮等时而去疗养, 逐渐身心疲惫, 最后走入怀疑、自我崩溃的阶段。不安、绝望孤独现于其作品世界里。主要作品有《河童》、《齿轮》、评论《西方人》等。1927 年7 月24 日在家服过量催眠镇静剂- 佛罗那自杀, 英年早逝, 给人们、给文学留下了许多遗憾。 综观芥川文学生涯, 不难看出其作品主要集中在大正年间, 作品除随笔、评论、童话、自传性小说外, 大多为优秀的短篇小说。作品根据取材内容, 可大致分为历史小说, 宗教题材小说等。前者有《罗生门》、《鼻子》、《芋粥》、《偷盗》、《戏作三味》、《地狱变》等。后者有《奉教人的死》、《邪宗门》、《黑衣圣母》、《南京基督》等。这两部分占其作品的一大部分, 是我们不能忽视的特点。他从开始追求宗教的“美”与“善”,到最后的怀疑、迷惘, 也是和他的人生追求、命运归宿有密不可分的关系。 对芥川文学的评价大多数人都给予很高的赞誉, “给人与古典的感觉、静谧、沉着, 将深度和重点有条理地汲入读者心田。”(井汲清治语) 。江口涣则有褒有贬: “芥川君作品的基调是包含着理智、精练的幽默。作者总是站在生活的外侧静观漩流”, “作为人生的旁观者, 没有对作品倾尽全心的热情, 也就没有打动人灵魂的力量”。总之, 芥川文学使人重新发现了古典作品的深远意义, 在他短短一生中, 写出了历史小说、“切支丹物”等宗教题材小说、童话、自传性小说、评论等大量作品, 给后人留下一笔不可多得的文学遗产。 《罗生门》是芥川在大正四年1915 年发表在《帝国文学》上的作品, 也被视为是其步入文坛的处女作、出发点, 从此人们开始注意这位文学青年。作品取材于《今昔物语集》( 原文大约有530 字, 有情节要点) , 原文简洁, 从心理方面, 仅仅描写了仆人和老妪的恐怖感。而芥川则加工创作成另一种形式, 通过大胆地揭露人类永恒的主题人性的自私, 描写人类的脆弱点, 情节跌宕起伏、有血有肉、引人入胜, 作品文笔流畅。通过此篇显示了芥川作为短篇作家所具有的素质和潜力。 罗生门亦名罗城门, 建于平安京( 今京都) 的朱雀大路南端, 高约21 米, 幅宽约54 米, 现已不存。作者以此为题, 强调了故事情节的开始、高潮、结束全过程都在这一个场所发生。它是一个人类社会的缩影, 无时不在上演着形形色色的利己主义的“闹剧”。 作品梗概如下: 平安朝末期, 某晚秋的傍晚, 一个仆人遭主人解雇后在荒弃的罗生门下躲雨。当登上罗生门后发现一老太婆正从死人堆中拔人头发做假发以求度日, 自己从厌恶到承认其恶为正当行动,仆人

芥川龙之介小说《罗生门》阅读

芥川龙之介小说《罗生门》阅读 罗生门 【日】芥川龙之介 某日傍晚,有一家将,在罗生门下避雨。 宽广的门下,除他以外,没有别人,只在朱漆斑驳的大圆柱上,蹲着一只蟋蟀。这数年来,接连遭了地震、台风、大火、饥谨等几次灾难,京城已格外荒凉了。 罗生门正当朱雀大路,现在却有狐狸和强盗来乘机作窝,甚至最后变成了无主尸体的集合地。所以一到夕阳西下,气象阴森,谁也不上这里来了。不知从哪里,飞来了许多乌鸦。白昼,这些乌鸦成群地在高高的门楼顶空飞翔啼叫,特别到夕阳通红时,黑魆魆的好似在天空撒了黑芝麻,看得分外清楚。 这家将穿着洗旧了的宝蓝袄,一屁股坐在共有七级的最高一层的台阶上,手护着右颊上一个大肿疮,茫然地等雨停下来。 说是这家将在避雨,可是雨停之后,他也想不出要上哪里去。照说应当回主人家去,可是主人在四五天前已把他辞退了。所以家将的避雨,准确的说是“无路可走”。家将不断地在想明天的日子怎样过--也就是从无办法中求办法。 要从无办法中找办法,便只好不择手段。要择手段便只有饿死在街头的垃圾堆里,然后像狗一样,被人拖到这门上扔掉。倘若不择手段哩--以后要去干的“走当强盗的路”,这决定当然是提不起积极肯定的勇气了。 家将打了一个大喷嚏,又大模大样地站起来,夜间的京城已冷得需要烤火了,风毫不客气地吹进门柱间。家将缩着脖子,向门内四处张望,如有一个地方,既可以避风雨,又可以不给人看到能安安静静睡觉,多好。 这时候,他发现了通门楼的楼梯,便摸摸腰间的刀,跨上楼梯最下面的一级。 当初,他估量这上头只有死人,可是上了几级楼梯,看见还有人点着火。这火光又这儿那儿地在移动,模糊的黄色的火光,在天花板下摇晃。他心里明白,在这儿点着火的,决不是一个寻常的人。 家将壁虎似的忍着脚声,好不容易才爬到这险陡的楼梯上最高的一级,尽量伏倒身体,伸长脖子,小心翼翼地向楼房望去。 果然,正如传闻所说,楼里胡乱扔着几具尸体。一股腐烂的尸臭,家将连忙掩住鼻子。 这时家将发现尸首堆里蹲着一个人,是穿棕色衣服、又矮又瘦像只猴子似的老婆子。这老婆子右手擎着一片点燃的松明,正在窥探一具尸体的脸,那尸体头发秀长,是一个女人。 家将带着六分恐怖四分好奇的心理,一阵激动,连呼吸也忘了。老婆子把松明插在楼板上,两手在那尸体的脑袋上,跟母猴替小猴捉虱子一般,一根一根地拔着头发,头发似乎也随手拔下来了。 看着头发一根根拔下来,家将的恐怖也一点点消失了,同时对这老婆子的怒气,却一点点升上来了--不,应该说是对一切罪恶引起的反感,愈来愈强烈了。此时如有人向这家将重提刚才他在门下想的是饿死还是当强盗的那个问题,大概他将毫不犹豫地选择饿死。他当然还不明白老婆子为什么要拔死人头发,不能公平判断这是好事还是坏事,不过他觉得在雨夜罗生门上拔死人头发,单单这一点,已是不可饶恕的罪恶。当然他已忘记刚才自己还打算当强盗呢。 于是,家将两腿一蹬,一个箭步跳上了楼板,一手抓住刀柄,大步走到老婆子跟前。老婆子大吃一惊,并像弹弓似的跳了起来。 “哪里走!” 家将挡住了在尸体中跌跌撞撞地跑着的老婆子,俩人便在尸堆里扭结起来。家将终于揪

芥川龙之介《罗生门》浅析

芥川龙之介《罗生门》浅析 摘要:芥川龙之介的《罗生门》展现了在极端的社会环境下,世人不同的利己主义思维与表现,将乱世中人性的兽性,为生存不择手段的利己主义淋漓尽致的表现了出来。芥川在《罗生门》中塑造的“家丁”与“老婆子”的形象无不展现了在极端环境下暴露的利己主义以及人性的弱点。芥川通过对家丁的心理细腻的描写表现了家丁由“恶”到“善”再到“大恶”的多次心理转变。而最终,家丁成为一名通过伤害他人来为自己谋求利益的典型利己主义代表。 关键词:《罗生门》;芥川龙之介;利己主义; 《罗生门》是芥川龙之介早期的作品,取材于日本古典文学《今昔物语》,主要讲了一个傍晚里罗生门内发生的故事。文章篇幅虽然短小,但精致考究,能给读者一种强烈的震撼。而我也在阅读的过程中产生不少的想法,现写下来与大家分享。 一 正如多数的日本作家是比较喜欢而且善于描写人的内心的细微变化的,芥川龙之介也通过笔下家丁这一人物形象极大地展现了个体从心性健全到人性泯灭、损人利己的心理变化的整个过程。“服侍主人有年却被辞退”[2]的家丁因无家可归躲雨在城门下,思考如何继续过接下来的日子。他反复考虑“要不要不择手段地生活”[2]。这说明原本他只是一名忠诚老实的普通人,并非是天生无恶不作的邪恶之人。他尚存理智和良知,以偷盗为耻,认为勤恳踏实才是生活之本,就是这样的人怎么也不会想堕落成强盗的。在家丁登上罗生门城楼,发现了老婆子在拔死人的头发时,他是“对一切罪恶的反感越来越强烈”[2],甚至刚刚自己一直在考虑的是否为了生存而做强盗的想法也被瞬间否定了。他人性中的良知在看到老妪不道德的行为时如同火焰般燃烧,从之前的为生存思考的道德选择骤然间清楚起来,身上的正义感也促使着他去遏制自己身上的不道德的想法,而在听完老太婆的叙述后,他的心理再次发生了改变。他为自己为恶找到理由,于是立即付诸实施。将人性的软弱和无原则表现的淋漓尽致。 “当生存成为第一需要的时候,在人性善与恶的天平上,人性就倾向了恶。”[1]老太婆为恶有她的理由:女尸活着的时候,用蛇假冒鱼干卖掉赚钱;家丁也有理由:老太婆做的事情实在恶心。而女尸、老婆子和家丁在极端物质条件的威胁下:不为恶,就会饿死。所有人都有正当的理由,人性的善良和诚实就这样消失不见了。 二 大多著名日本文学家的作品中带着病态色彩,甚至觉得认为这些文学家自身的性格中也存在着某种病态的成分。我相信芥川龙之介的心底,也存在着某个角落,他时常躲进那个角落,暗自揣摩,这世上最恐怖的地狱是什么模样。然后他把一切想象诉诸笔端,努力身临其境——他成功了。在他所创造的地狱里,是经历过地震台风、大火饥荒几度灾难后的京都,一个亦真亦幻的荒凉鬼城。那里连日暮都是难以描述的阴森,狐狸作窝,乌鸦觅食,强盗流窜,尸体遍地。

从《罗生门》中动物般的人物形象看利己主义

从《罗生门》中动物般的人物形象看利己主义 作者:董妍娜 作者单位:河南科技大学,河南,洛阳,471003 刊名: 东京文学 英文刊名:DONGJING WENXUE 年,卷(期):2009,(10) 引用次数:0次 参考文献(5条) 1.芥川龙之介芥川龙之介全集 1997 2.三好行雄芥川龙之介论 1982 3.吉田精一芥川龙之介吉田精一著作集 1979 4.木村一信作品与资料芥川龙之介 1984 5.芥川龙之介.文杰若芥川龙之介小说集 2003 相似文献(10条) 1.期刊论文黄海宁芥川龙之介及其小说《罗生门》-现代语文(文学研究)2008(4) 芥川龙之介是日本大正时代的一位重要作家,他的创作时间不长,但成就却是巨大的,作品主要集中在短篇小说方面.其代表作<罗生门>更是以其思想的深刻性,获得了持久的关注.本文拟探讨芥川龙之介的生平经历与其创作之间的关系,并阐述<罗生门>所揭示的人在面临困境时如何选择的问题. 2.期刊论文韦平和芥川龙之介对鲁迅作品的影响——以《罗生门》和《阿Q正传》的比较为中心-日语学习与研究2007(2) 本文主要通过芥川《罗生门》与鲁迅《阿Q正传》的多方面比较,指出了两者在主人公的姓名籍贯、职业和住处、生活处境以及小说的结构形式、故事结局、重要的细节描写上的相似之处,分析了芥川《罗生门》对鲁迅《阿Q正传》创作的影响.同时,指出这种影响是潜在的,应该全方位地开展研究. 3.期刊论文戴焕从中英文翻译再析《罗生门》-日语学习与研究2005(1) 本文通过分析日本短篇名著(罗生门)的中英文翻译文本,考察小说在因翻译而被过滤掉的文化及时代背景、以及在一定程度上失去了日语语言表达上的特色以后的状况,来重新发掘该小说的特点及特色.笔者认为,该小说最大限度地利用了日语语义多重而且模糊的特点,使小说环境描写充满矛盾,借此表达了作者对小说主人公矛盾复杂的态度. 4.学位论文黄忠试论芥川小说《罗生门》与《今昔物语集》2009 芥川龙之介于1892年生于东京市,父亲新原敏三在京桥区入船町8丁目以贩卖牛奶为生。他出生7个月后被送剑母亲的娘家由姨娘抚养。11岁时母亲去世,第二年成为舅舅芥川道章的养子,遂改姓芥川。作为旧士族芥川家的养子,他也沿袋了江户文人的作风。 芥川于1898进入小学,在府立第三中学毕业之后进入了第一高等学校(高中)学习。久米正雄、松冈让、菊池宽、土屋文明等人都是他的同学。1913年他进入东京帝国大学,学习英国文学。在此期间他与菊池宽、久米正雄等人联合创办《新思潮》(第二次)杂志,从而走上写作道路。1914年他在《帝国文学》上发表了短篇小说《罗生门》。经铃木三重吉介绍,得以拜夏目漱石为师。1916年他在第四次复刊的《新思潮》杂志创刊号中发表短篇小说《鼻子》,得到夏目漱石的好评。 从1916年12月到1918年3月,芥川一面担任海军机械学校的英语教员,一面努力创作。之后辞去教员职务,进入大阪每日新闻社,专注于文学创作,并于1919年3月结婚。1921年2月芥川龙之介作为大孤每日新闻报社的海外观察员到访中国。在其访问北京期间,曾与胡适先生会面。同年7月回国。在他的《上海游记》中有所记载。 1927年4月起,芥川与谷崎润一郎之间开展了一场关于文艺的争论。对于谷崎润一郎所主张的“小说的趣味性”,芥川提出不能以“小说的趣味性”来决定小说的好坏。这场争论作为引导战后物语文学批判的主流而载入文学史。 他创作的小说经常以中国和日本的古典文学为素材。例如以唐代小说《杜子春传》为素材创作的《杜子春>等,于《蜘蛛丝》一起发表于铃木三重吉创建的《红鸟》杂志上。除了中国古典以外,也取材于天主教及平安时期的舞台剧。另外,他也有很多作品的创作灵感来源于日本古典说话文学。例如《罗生门》、《鼻子》、《芋粥》等都来源于《今昔物语集》;《地狱变》等来源于《宇治拾遗物语》。另外他在汉文和语言锤炼上也有很高的造诣。 芥川龙之介初期作品和后期作品之间存在着巨大的差异。初期作品得到一致好评,在历史方面特别擅长描写人物内心、尤其是对利己主义的描写较多。全面表现其艺术至上主张的作品《地狱变》、长篇小说《邪宗门》等都没有受到后世学者太高的评价。或许是由于作者重新审视自己的人生、考虑自杀等原因,这一时期有很多关于生死的的作品。 但是晚年创作的《一块土》等作品,与以往相比开始描写现代。但也被攻击为“在无产阶级文坛中的资产阶级作家”。这时的作品《大道寺信辅的半生》和《点鬼簿》等虽被称为是告白自传,但是晚年的代表作《河童》却通过描写河童的世界而强烈的批判了人类社会。 本论文从芥川龙之介早起作品《罗生门》出发。众所周知《罗生门》取材于日本中世的 说话集《今昔物语集》。鲁迅先生评价芥川的小说是“取古代的事实,注进新的生命去,便与现代人生出干系来”。在此基础上,本论文旨在对比芥川的小说《罗生门》与其原典《今昔物语集》,捕捉关于主人公的描写,从而探究由此展开的现代人的心理。关键字:芥川龙之介、早期作品、罗生门、今昔物语集、人性心理 5.期刊论文贺忠.He Zhong黑泽明《罗生门》之死亡美学-电影评介2009(10) 黑泽明电影<罗生门>结合了芥川龙之介小说的情节,采用一种多重平行叙述的独特手法,讲述了丛林中的死亡事件,每个人物的独白都是整个事件的碎片,经过人的自私本性的折射,这些独白本身是不可靠的,同样的道理,转述这些独白的叙述者本身也是不可靠的,死亡使人性暴露在夏日的阳光下,人的可悲与渺小,人的伟大与真诚.并通过讲述死亡理解了自己的灵魂,赋予死亡本身更深刻的哲理内涵. 6.期刊论文王蔚.WANG Wei善恶之间--对《罗生门》的结构主义解读-山东外语教学2005(1) <罗生门>是日本著名小说家芥川龙之介众多优秀短篇小说中的杰作之一.对于该小说的解读大致有两种:其一是从比较文学研究的角度出发,从古代经典中挖掘故事的原型与之比较;其二是结合作家生活的时代背景、个人经历来分析作品,揭示作家人生观中的虚无主义,或进行社会性批判.本文中,笔者尝试运用结构主义文论二项对立的方法对小说文本进行详细解析,以期重建文本的深层意义结构,同时重新考察文中暗含的主题.

芥川龙之介对人性的思考与感悟

从《罗生门》《鼻子》浅谈芥川龙之介对人性的思考与感悟 芥川龙之介是日本近代著名的短篇小说家。他与森欧外、夏目漱石被称为20世纪前半叶日本文坛上的三大巨匠。电影大师黑泽明也将其作品《竹林中》搬上银幕。芥川龙之介作品的特点是技巧纯熟、精深洗练、寓意深刻、心理描写细腻、经得起反复推敲。他是“新思潮派”的代表作家,这一流派的特点是对现实的表现是客观的、理智的;在艺术技巧上更是刻意追求。 《鼻子》与《罗生门》都是芥川龙之介的早期代表作。他这一时期的作品多以历史小说为主。他多从世界历史寻找题材,但并不追求历史的真实性,而是借故讽今,借古喻今。其中充满理性话语给人以深刻的哲理思考与感悟。“尽管作品让人忍俊不禁,但其背后却潜藏着作者的不安和痛苦的心情,他把人情的冷漠看成是人类堕落的深渊。”[1](p270) 一 《罗生门》是芥川龙之介于1915年发表的一篇精致的短篇小说。罗生门“本意:“本来在日文汉字写成“罗城门”,最原始意义是指设在“罗城(城的外郭)”的门,即“京城门”之意。由于古代日本常年战乱,尸横遍野。许多无名死尸,被拖到城楼丢弃,待年久失修,颓败之后,继而显得荒凉阴森。年积月久,在人们心中产生了阴森恐怖、鬼魅聚居的印象,故而有了“罗生门”是通向地狱之门这一鬼谈幻象之说。”在根据这篇小说改编的电影里的,我也感觉到整个环境很压抑,荒凉阴森,伴随着的是一个和尚和一个砍柴人的故事,从一开始就让人陷入一种很困惑的境地当中,是什么让和尚觉得比战争瘟疫都可怕,使他觉得他有可能因此不会对人类的灵魂抱有信心了,随着故事的发展,我看到了在《罗生门》这篇小说里同样所表现出的人性的善与恶,人们为了掩饰自己的罪恶在不停地撒谎,一个案子居然有好多个版本的供词,到最后也不知道到底是谁说真话了,是樵夫吗?这是电影想留给我们的思考吗?人们可以为了让自己的形象美化,而去编造谎言,这世界还有什么值得信任,但最后老樵夫救了婴儿让僧人和我们都看到了希望,人与人相处有了信任才会有希望,有了善念,少点谎言,生活才会万里晴天。在这篇小说里,主要借用了《今昔物语集》“登罗生门见死人,贼人的故事第十八”的材料。作者把这个引到了最现实的生活当中来,写人们为了生存而不惜任何代价,即使是最起码的良心。你为了生存可以拔死人的头发,我为什么不可以抢你的衣服,错误的作法居然可以得到别人理所应当的推敲,以恶传恶,或许家将最终也会被别人为了生存而伤害,总之那是个“正当”的理由。 故事背景是“写在古代平安朝末期,灾难横生,京都一片荒凉,一个被解雇的仆人走投无路,来到罗生门楼避雨,见门楼上尸骨如山,一个瘦弱的老婆在拔死人的头发,他本想申斥老妇的不义行为,转念在生死攸关之时无道德观念可言,旋即持刀胁迫老妇,剥其衣服而去。”[1]p270小说一开始头,阴冷的气氛围绕着罗生门,动物和死人的尸体堆满了城楼。一个被主人解雇的家将在罗生门下避雨。仆人当时正在思考一个问题“饿死呢还是做强盗”[2](P235)。这让我想到了电影里那个樵夫的“我想不明白,想不明白”,可以都算做是最初的关于人性的思考吗?正当这个仆人徘徊的时候,发现一个老妇正在拔死人的头发做成假发卖钱。

芥川龙之介

あくたがわりゅうのすけ 芥川龙之介 芥川龙之介简介 短篇小说巨擘芥川龙之介是日本大正时代的一位重要作家,是新思潮派的柱石。这个流派表现了本世纪初日本小资产阶级不满现实而又苦于无出路的心情,在艺术上则突破了长时期作为日本文坛主流的自然主义文学,正视社会现实,既有浪漫主义色彩,又有现实主义倾向。 芥川龙之介的创作生涯是在第一次世界大战的背景下开始的。在他生命的最后几年,工人运动、社会主义运动和反战运动蓬勃发展。一九二三年反动当局利用关东大地震之机对广大革命群众及进步组织进行血腥镇压,日本国内的阶级矛盾日趋尖锐。一九二七年发生了金融危机,中小企业纷纷倒闭。现实社会的这种紧张沉闷的气氛使芥川感到窒息,资本主义社会的丑恶现实不可避免地反映在他的作品中。鲁讯指出:“芥川龙之介的作品所用的主题最多的是希望已达之后的不安,或者正不安时的心情。” 芥川龙之介,号柳川隆之介、澄江堂主人、寿陵余子。能赋句,号

我鬼。他于一八九二年三月一日生在东京,因为恰好赶上辰年辰月辰时,故名龙之介。原姓新原,父亲经营牛奶业。生后九个月,因母亲神经失常,过继给住在本所的舅父作养子,改姓芥川。芥川家世世代代都有人在将军府任文职,明治维新后,父在东京府上作土木科长。他虽然有自己的房屋,退休后仅仅靠养老金糊口,生活并不宽裕。芥川在《大导寺信辅的前半生》中写道:“他们的贫困并不是住在连檐房里的下层阶级的那种贫困,而是为了保持体面不得不忍受更多的痛苦的中下层的贫困。”养父母对诗书琴画无所不通,家庭里有着浓厚的传统文化艺术气氛。本所区又是文人墨客荟萃之地,保留着使芥川神往的江户情趣。芥川在这的家庭和社会环境影响下,自幼受到中日古典文学(包括《西游记》、《水浒》和泷泽马琴、式亭三马、十返舍一九等江户时代作家的小说)的熏陶。他生性异常聪慧敏感,体质虽纤弱,学习成绩总名列前茅。上中学后广泛涉猎欧美文学,喜读易卜生、法朗士、波德莱尔、斯特林堡等人的作品,深受世纪末文学的影响。他曾引用法朗士的话说:“我不是通过与人接触而是通过与书接触才了解人生的。”明治时代的作家中,他最喜欢辛田露伴、泉镜花、木通口一叶和德富芦花。 十八岁时,芥川作为优等生免试进入东京第一高等学校文科。一九一三年入东京大学英文系。读书期间,成为第三次和第四次复刊的《新思潮》杂志的同人。一九一五年发表《罗生门》,但当时并未引起文坛重视。大学毕业之前,在第四次复刊的《新思潮》上发表《鼻子》

芥川龙之介_罗生门_中利己主义思维的解析

31 2011年 Vol.26 No.12南昌教育学院学报 文学艺术收稿日期:2011-11-16 作者简介:沈 远(1984-),男,江苏无锡人,从事日语语言文学的教学和研究。 《罗生门》是芥川龙之介的代表作品之一,作品通过描绘了乱世之中一位被主人解雇的家将的内心由挣扎到堕落的全过程,表现了人类在利己主义思维主导之下所展现出的内心的阴暗,深刻的批判了人类社会中存在的各种丑恶的现象。 一、芥川《罗生门》与原著《今昔物语集》中故事比较 芥川的作品取材新颖、构思奇巧,充分的揭示现实社会人性的阴暗和丑恶,具有极高艺术感染力。《罗生门》是芥川的成名作,于1915年发表在杂志《帝国文学》上。作为芥川早期代表作,《罗生门》在日本文学史上占据着重要地位。《罗生门》的故事原本取材于日本的《今昔物语集》,通过芥川的鬼斧神工的巨笔,使故事内涵进一步深刻化,露骨地展现人性的弱点之利己主义思想。与在日本古典《今昔物语集》原著登场主人公的强盗身份不同,《罗生门》的主人公的身份是“在兵荒马乱、灾难频发的年代,一个被主人辞退、走投无路的家将”,这个差别之处耐人寻味,意味深长。如果是强盗的话,在走投无路快饿死时扒光并抢走老妇的衣服也并非匪夷所思之事,或许可以说是理所当然的事情。在原著基础上,芥川又增加了家将在干“恶事”的丑陋老妇影响下,逐步由一个有正义感的人变为强盗的转变过程。这样利己主义的人物形象被更自然地刻画了出来。这一改变与《罗生门》表现人性自私的主题密不可分。另外,被老妇揪头发的死去的女人生前罪恶之事“将蛇肉晾干,冒充干鱼来卖给众人,以此来维持生计”最后得瘟疫而死这般因果报应的情节也是原著《今昔物语集》所没有的内容。根据这一改变,进一步增强了文中老妇“为了逃脱饿死的命运,必须从死者身上拔头发”这一诡辩说辞的说服力之表达效果。这也就为主人公家将为了“活下去”而抢走老妇衣服提供了干“恶事”的逻辑借口。该小说中,芥川仅仅塑造了三个人物形象,便将乱世之中人们生存的艰辛,和为生存而不择手段、善恶不分、良知泯灭的行为以及在为了活下去的借口下,极端的利己主义思维淋漓尽致的表现出来。 二、《罗生门》中利己主义思维的解构 在心理学中,利己主义指的是一种任何行动均以自我为中心,从自身的角度出发看待问题,全然不考虑对他人的影响而追求自身利益的一种心理。抱有利己主义思想的人,会无视道德伦理的要求,做出任何对自己有利的行动,并站在自身的角度为自己的行为而辩护。在芥川龙之介的《罗生门》中出场的全部人物,均有着不同程度的利己主义思维,并且由于环境的不同,其利己主义思维的表达程度和表现形式也发生着微妙的变化。 文中老妇黑暗的罗生门城楼上的死人堆里通过拔死人头发制作假发来维持自己的生活的场景,带给读者强烈内心震撼,同时,老妇的行为与言论当中也体现出了典型的利己主义思维,并对文章的主人公——家将内心的由堂堂的正义感向为 了活下去不择手段的转变起到了决定性的影响。如果说老妇在兵慌马乱的年代通过拔死人头发制作假发出售来维持生活是出于无奈之举的话,那么将自身本不正当的行为看做理所当然,并通过与死者的对比来为自身开脱的做法,则确切无疑的体现了诡辩的利己主义的思维。虽然与老妇故事中的死者相比,老妇的行为看似情节轻微,但是即使是“小恶”,也无法逃脱“恶”的性质。家将在最初发现老妇的行为之后所产生的愤恨,便是基于善良的心态来看待老妇的做法时产生的一种十分自然的反应,由此便可以看出,老妇的行为实际上已经违反了人类的道德底线。但是在利己主义思维的影响下,老妇却并不认为自身的行为存在有任何不合理之处,反而利用死者的行为与自己进行对比,描绘死者生前在利己主义思维的驱动下所做之“恶”,来达到为自己所做恶行开脱辩解的目的,并且将一切因利己主义思维而产生的行动归咎于外界环境,声称自己和死者的举动均是为了谋生,是出于无奈,因此可以被原谅。 老妇故事中的死者则是另一位有着典型利己主义思维的角色。通过老妇的描述可以发现,死者生前的行为已经不仅限于利用死者来维持自身的生存,转而演变成为欺骗生者而达到谋求利益的目的。若是老妇拔死者头发的行为是一种“小恶”的话,死者生前的举动则更进一步,已经达到了“恶”的程度。用晒干的蛇肉冒充干鱼,并以此来维持生计,如果说是在生活条件艰苦,为了生存走投无路的情况下偶然为之,还可以解释为无奈之举。但是在老妇的描述中,明显的表达出死者的“蛇肉干鱼”实际上很受欢迎,因此可以推断出,死者生前的行为已经不仅是迫于生计,而是彻彻底底的利己主义思维在作祟。明知是蛇肉,却坦然的将其卖给信任自己的买主,在任何一种环境下,都是一种令人反感的行为,虽然死者已经因为瘟疫而过世,却通过老妇的讲述,给家将造成了深刻的影响。虽然老妇为了体现自身的清白,轻描淡写的将自己与死者的行为描绘成了为了生存而做出的万般无奈之举,但是其利己主义思维却通过这种掩饰更加表露无疑。 主人公家将则是芥川龙之介在《罗生门》中塑造的一位被利己主义思维所侵蚀的典型人物。故事初,家将面临被主人解雇困境,因走投无路而来到罗生门下避雨,并在“饿死路旁”与“成为强盗”这两种想法之间产生了思想斗争。此时的家将可以说是一个善与恶斗阵的场所,究竟是人性的光辉战胜家将内心的阴暗面,还是利己主义思维站到上风,让家将作出违背伦理道德的举动,在故事的开始还是一个难以确定的问题。随着故事的不断深入,家将在进入罗生门之后发现了老妇,在最初的恐惧过去之后,家将对老妇的行为产生了强烈的厌恶与愤恨之情,这种感情是人类面对不正当行为时产生的一种自然而然的排斥心理,文章通过这种心态表现了家将内心中存在的善 芥川龙之介《罗生门》中利己主义思维的解析 沈 远 (无锡商业职业技术学院商务外语学院 江苏无锡 214153) 摘 要:《罗生门》作为芥川龙之介的代表作,充分的揭示了人类在利己主义思维下表现出来的人性的丑恶。本文将《罗生门》小说与其取材的原著《今昔物语集》中故事进行了比较,并对文中表现出的利己主义思维进行了深刻的剖析,为分析了小说人物在两难选择、利己主义驱使下善恶转化的人性转变的复杂性提供参考。 关键词:芥川龙之介;《罗生门》;利己主义;人性丑恶 中图分类号:I106 文献标识码:A 文章编号:1008-6757(2011)12-0031-02

浅析芥川龙之介的《罗生门》

浅析芥川龙之介的《罗生门》 芥川龙之介是日本大正时期的代表作家,作品风格纤细华丽,在创作中注重技巧,形式、结构完美,关心社会问题与人生问题。《罗生门》是芥川龙之介的短篇小说之一,关于罗生门的研究有很多方面,日本方面的研究中有从教学的角度出发,将《罗生门》与教学相结合。有分析作品中仆人的心理变化来展现人为了生存,在利己主义的驱使下可以轻易的行恶这一主题的,有从作品的构思及布局出发来深入分析文本的叙事方式的,有结合作者的人生体验及背景来分析人如何由善转变为恶,以及作品反映的是作者悲观主义,虚无主义的人生观的。有探讨作品的结局的。本文尝试对罗生门中的景物描写以及小说的结尾进行分析,探讨景物描写在文中所起的作用,以及小说的结尾中作者想要表达的主题。 一、《罗生门》中的景物描写分析 《罗生门》中的环境描写也极具特点,作者运用不同的色调,描写不同的事物使小说的画面更加的鲜明,小说中关于“雨”的描写也贯穿全篇,使读者产生压抑之感。 (一)《罗生门》中对“罗生门”的描写 “薄暮时分,罗生门下。一个仆人正在等待雨的过去。”①首先是小说中故事的发生地点罗生门的描写,“只有一只蟋蟀伏在红漆斑驳的粗圆的桂木门柱上。”蟋蟀往往给人一种凄凉之感,“乐得狐狸来栖,盗贼人住。”狐狸和盗贼多有狡猾奸诈之意,“最后竟将无人认领的死尸也搬了进来。”“尤其门上方的天空回光返照之时,乌鸦浑如播撒的芝麻历历在目。”乌鸦是凄凉衰败之兆,“蟋蟀”“狐狸”“死尸”“昏鸦”给人的整体感觉都是暗色调的,在景物描写上不同的色调总是给人不同的感觉,暗色调则让人产生一种压抑,沉重的感觉。这些事物聚集在一起,给人一种恐惧之感。小说的时间是黄昏时分,下着大雨,再加上荒凉衰败的罗生门,这样一幅黑暗的,压抑的,阴森的画面就展现在读者眼前。②当时的京城已经混乱到如此地步,其他的地方就可想而知了。而罗生门的存在就是当时社会的一个缩影,又像是一个充满着“丑恶的窝”。就这样仆人进入了阴森,恐怖的罗生门。“啄食死尸的乌鸦一只也没有看到,坍塌的,缝隙中升满杂草的石阶上乌鸦的白粪随处可见。”“仅仅有一只蟋蟀趴在朱漆斑驳的高大的圆柱上。”仆人就如同那形单影只的蟋蟀一般,孤独无助,非常脆弱,随时都有可能被这风雨吞没。 (二)《罗生门》中对“雨”的描写 古往今来雨虽然是一种自然现象,却多被用来营造出忧郁的气氛,作者一般将自己的感情融入对雨的描写之中。《罗生门》中关于“雨”的描写,贯穿了整篇小说,首先是黄昏时分,下起了雨,正是因为这场雨,仆人来到了罗生门,为故事的发生提供了前提。大雨包围了罗生门,使整个罗生门变得更加压抑。雨声由远及近的袭来,不仅暗示了仆人内心的变化,也将故事的情节引向高潮。作者是这样描写老太婆的,“仆人的眼睛这时看清死尸中间蹲有一个人,一个身穿桧树皮色衣服的白发老太婆,又瘦又矮,浑如猴子。”老太婆在拔死人的头发,她的行为是非常丑陋的,可是她却道出了自己这么做的原因,老太婆与卖鱼干的女子这种恶性又被老太婆美化为所谓的“行恶合理”论。同时老太婆也说出了人性的灰暗,人为了生存,什么事都可以做。“故事就是从门下石阶- 门楼- 宽木梯-楼梯一级- 楼梯两三级-楼梯顶头- 门内-楼梯下一步步的进程中将仆人的意识流动层层叙述出来:无聊-沉重- 宽慰- 谨慎- 恐惧-憎恶- 冷静,心理时间与物质空间亦步亦趋。”③仆人最终剥下了老太婆的衣服,消失在茫茫的黑夜里。 三、结语 本文通过对《罗生门》中的环境描写和充满悬念的结尾进行分析探讨了罗生门和雨的描写在文中所起的作用,在结尾部分中仆人剥下老太婆衣服这一行为可能体现的是仆人对于“恶”的一种反抗。作者揭露了丑陋,引人深思,也对仆人的未来寄予了希望。

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